木村拓也コーチお別れ会 原監督 弔辞全文

木村 拓也(きむら たくや、1972年4月15日 – 2010年4月7日)は、宮崎県宮崎郡田野町(現・宮崎市)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)、プロ野球コーチ。愛称はキムタク。
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弔辞。木村拓也くん、きょうは君が一緒に戦ってきたジャイアンツのみんながお別れに来ています。若かった時に活躍した、カープの皆さんも集まっています。君にプロ野球の門戸を開いてくれたファイターズの大先輩もお見えです。野球人としての生き方に共感した人たちが、君のために集まってくれました。

 君がジャイアンツに入ったのは、私が監督に復帰した2006年6月でした。そのころは主力に故障者が出たこともあって、チームが弱体化し私はかじ取りに苦しんでいました。元気のいい野球少年がそのままプロ野球選手になったような君は、広島からのトレードが発表されると、すぐにホークスとの交流戦が行われるヤフードームに駆けつけ、練習してから入団会見を行ったのでした。晴れのお披露目でビジター用のユニホームを着るなんて、君の心意気が表れていました。

 翌日にはもう代打で出場し、三塁、外野の守備に就きましたね。君はすべてのことに対して臆することなく、勇気を持って戦う姿勢を持っていました。だから、二塁のレギュラーポジションにぽっかりと穴が空いたときもすぐに君が救ってくれました。常に全力を心掛ける気持ちが過剰になり、思わぬエラーをすることもありました。でも君は自分のせいで失敗するとそれを自分の打撃で取り戻す意地も見せました。2008年9月15日の横浜戦でも2回に君の送球ミスから先制点を奪われると、君は3回にバックスクリーンに同点本塁打を放ち、結局2安打3打点の活躍を見せました。こうした君の気迫が、一時は13ゲーム差を離された阪神を逆転していくエネルギーになりました。

 君はこのシーズン、36歳にして自己最高の打率、・293をマークし、そして、昨年、君はジャイアンツの財産とも言えるプレーを見せてくれました。9月4日のヤクルト戦、延長11回の攻撃で加藤が頭部死球を受け、キャッチャーが誰もいなくなるという事態が起きました。私が「タクはどうした」と聞くとコーチから「ブルペンに行きました。練習しています」という返事が返ってきたのです。私はとてもうれしかった。君は一番左の写真にある通り、12回の守りで豊田、藤田、野間口という3人の投手をリードし、無失点に切り抜けたのです。私はベンチから飛び出して君を抱きしめました。誰に指示されなくてもチームの中での役割を考えて、練習し、10年ぶりのキャッチャーをこなした君に、ジャイアンツは本当にいいチームになったと感じたものです。

 君が見せた姿勢こそ強いチームをつくるために、必要不可欠なものでした。君は投手以外のどのポジションも守れるオールラウンダーとしても、しかもスイッチヒッターでした。19年の選手生活で積み上げた1523試合出場、1049安打という数字の陰で、どれだけの汗と涙を流したのだろう。でも私は君の真っすぐな明るさが天啓のごとく、いつも可能性を君に見いださせ、周囲から惜しまぬ協力を引き出したのだと思います。

 私はスポーツマンには素直さ、朗らかさ、謙虚さが大切だと思っています。君はそれを持ち合わせていました。君が現役を引退した時、私はコーチとしてそれを若い選手に伝えてほしいと思いました。あの時、私と君は「拓也、日本一、いや世界一のノッカーになろうな」と誓い合ったな。それはもうかなわない。でも君の精神は私たちの心のなかで間違いなく脈打っています。もちろん君が愛する子供さんたちのなかにも同じです。君はこれからも私たちとともにいます。

 東京ドームの君のロッカーにあった「84 T・KIMURA」のネームプレートは今、監督室の私のそばにあります。一緒に戦うぞ、拓也。ありがとう、さようなら、拓也。

平成22年4月24日

読売巨人軍監督

     原 辰徳

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